ALGORITHMIC DESIGN / INDUCTION DESIGN

新水俣門2005

「形態発生+構造高適化」プログラム「形力」による生成建築体

「形態発生+構造高適化」プログラムによる建築体

これは九州新幹線「新水俣駅」の完成後に、水俣市からの依頼で駅前広場に設計・製作されたモニュメントである。

ここでの目的はふたつある。ひとつは、水俣市の新しい玄関である「新水俣駅」を現すオブジェクトとなること。

もうひとつは、それを、形態発生と構造力学を統合したプログラムで生成することであった。そのために開発されたプログラムが「形力-1」である。

その成果である「新水俣門」は、世界初の、「形態発生+構造高適化(最適化)プログラムにより実現した建築」と思われる。

「INDUCTION DESIGN」の一環としてプログラムにより「必要な条件を解いて」建築を生成する試行は、2000年の「大江戸線飯田橋駅」の「ウエブ フレーム」で実現した。

その次の発展版にはふたつの課題があった。ひとつは評価プログラムの改良であり、もうひとつは構造力学を取り込むことであった。前者はその後、「流れのプログラム」としてなお開発中である。構造力学との統合は、「大江戸線飯田橋駅」の「換気塔」で試行したがプログラムは未完であった。その後を継いで、構造力学との統合を果たすことが、「新水俣門」プログラムでの意図であった。

この意図をはっきりさせるために、ここには構造材以外の部材はない。全体が、「純」構造体である。その構造は、応力に応じて部材のサイズが選ばれる。応力の大きい場所には太い材、応力の小さい場所には細い材、という、適材適所の構造体だ。

このプログラムでは、風荷重と自重に加えて、任意の点に荷重をかけることができる。実際に計算時に用いた荷重は、完成した実物の頂部に立てられた緑色のポール群が示している。

部材は32MM厚のスチールで、幅は120、90、50の三種類に限っている。(一部のみ38MM材を使用) 当初、一枚の厚板から全体をレーザーでくりぬきだす予定であったが、厚さを考えて、単位材の溶接接合でつくることにした。

このプログラム「形力-1w」は曲面も扱えるようにしてあるが、門というイメージからも、実施版は平面の組み合わせとした。発生プログラムは原点から成長していく仕組みなので、垂直面は成長の方向にパターンをそのまま延長して縦に伸ばしている。

プログラムの各過程でどのような設定をするかにより、結果は毎回変わる。連続面の形状と大きさ、形態発生時の各選択値、開口部の指定、そして高適化(最適化)時の部材の選択、そのどの段階の捜査でも結果は変わる。

収斂進化 :かたちのまねではないこと / しくみの類似

「新水俣門」の全体のカタチは木に似ている、と思うかもしれない。しかし、これは樹木の外形を模倣したものではもちろんないことに注意してほしい。この形状に、引用や原型はない。(門型、というのは意図であるが)

設定した生成原理の結果が、樹木を連想させるものになったのだ。

(正確には樹木とは形も違う。樹木の枝は分岐はするが、再接合することは稀である)

しかし、印象としては樹木に近い。そうなる理由は、設定した生成原理に樹木のそれと共通点があるからである。木立の枝に限らず、葉脈や根、私たちの骨や組織にも、よくみれば類似の構造が見出せるだろう。

それはもちろん、骨格が木の枝をまねしたからではない。必要により、まったく無関係に生まれた架構が、条件と目的に対して最適な構造を求めていった結果、類似した「みかけ」を持つようになったということである。木の枝と骨、というように出自も材料も違うものが、同じような条件で同じような目的に向かうとき、同じような解答にたどり着くという現象は、生物学では収斂進化と呼ばれている。

「新水俣門」は、一種の収斂進化の結果、植物や骨格のような形態となっているといえよう。

評価原理 :よいもの、をどうやって生み出すか

「新水俣門」の形態はこうしてできている。だからプログラムに与えたパラメータをひとつ変えれば、違う形ができあがる。「形態発生プログラム」の結果の同じひとつからでも、「構造高適化(最適化)プログラム」の荷重条件の設定を変えれば違う構造形状が生まれる。選択肢は無限にある。

しかしそれはただランダムな選択肢を増やしているのではない。評価プログラムは組み込んでいないが、発生原理が組み合わされていることで、無作為で発生させた形態にも、ある程度の自然さ=バランス が見られる。これはおもしろい点だ。

規則に潜む自動率のようなものが働いているということもできる。それが美しいものを生むという保障はないのだが、意外に、大きなはずれは少ない。

評価とは何か、どうしたら「いいもの」を取り出せるか、とは、平行して進めている「流れのプログラム」のテーマなのだが、「新水俣門」のプログラム「形力」の結果もまた、評価に関わる方法の可能性を示しているのかもしれない。いまのところ、あくまでそれは可能性に過ぎないのだが。

何がよくなるか :与えた条件をクリアした解答をいつもだせること / 想像力への拘束を少なくすること

この架構をプログラムで生成することに、どんな意味があるだろうか。

同様なかたちは手でも描けるし、描いた形から構造計算で太さの違う構造を成り立たせることもできる。今回用いたようなプログラムなしでも、現物は設計できるしつくれる。プログラムなどいらないのではないか。

そう、気のおもむくままに好きなかたちをつくる、のであれば、プログラムはいらない。

しかしそこに条件が課されたらどうだろう。風荷重から、全体の開口率がある数値以下にならなければならないとしたら。気ままに描いたかたちが、指定の開口率になるようにするのは至難の技である。描いては修正するという試行錯誤を何度も繰り返して、うまくいけば、ようやく条件をクリアするかたちができる、ということになるだろう。うまくいかないこともありえる。

使える部材の長さに制約があったらどうか。枝分かれの角度に溶接上の制限があったらどうか。いずれも同様な試行錯誤が必要になり、しかも答えが見つかるという保障はない。それが普通の設計だ。建築に課されたさまざまな条件を一気に解く究極の解答が最初から見つかることは稀だ。稀であるだけでなく、その解を少し変えるととたんに条件を満たさなくなってしまう。しかし、プログラムは課した条件はきっちり満たす。(条件によっては相互に矛盾していて両立しない場合はもちろんあるが)

条件を解きながら、意図に沿う解答を生み出すこと、それがプログラムを使う価値である。

ひとの頭で考えていたのではこんがらがって分からなくなってしまうような、からみあった糸をほぐす仕事、をプログラムに委ねることで、ひとはより高次の作業により多くのエネルギーを注ぐことができる(はずだ)。

より高次の作業、それが何か、が問われるのですが。