K-MUSEUM1996

1999
マーブル・アーキテクチュラル賞(M.A.A.1998景観部門) 第一位 (伊)
1997
米国ランドスケープ協会賞(ASLA) (米国)
1997
都市景観大賞(景観形成事例部門) (日本)
1997
SDA賞 大賞(オリジナル部門) (日本)
1997
東京建築賞(一般部門) (日本)
1996
JCDデザイン賞 優秀賞(文化・公共施設部門) (日本)
1996
インターイントラ賞 優秀賞 (日本)

見えない地下のインフラを、浮上させて見えるように
共同溝展示館
米国ランドスケープ協会賞(ASLA) 、都市景観大賞 他

→ Farewell KM202412 → KM 2024記202404

みえないものを、見るために

イントロダクション:見えない未来/いまだ荒野としての都市

上:模型
下:写真
CG

臨海副都心は、東京湾に浮かぶ新しい都市である。
東京が江戸と呼ばれていた17世紀以来、東京は海を都市化することで成長してきた。
埋め立てによる都市の拡張。フロンティアと呼ばれるこの地は、東京の、20世紀最後の拡張場所となった。
しかし、都市の動態は経済情勢が決定する。
バブルと呼ばれた好況の80年代に着工された「フロンティア」は、インフラストラクチュアをほぼ完成させ上部構造の建設に移ろうとしたその矢先、90年代後半になって、第二次大戦後最大と言われる不況に見舞われた。予定された博覧会は中止され、進出企業はオフィスの着工を見合わせた。巨大なビジネスゾーンを予定していた新都市の中央部は、広大な空き地として残されたのだった。
そして今また、この街は動き出そうとしている。
波は繰り返すから波なのだ。都市の生命は永い。いっときの状況ですべてを評価することはできない。

そんな時代に、このミュージアムは、その都市の、まさに中央部に出現することとなった。それが意図だったのかどうかには、関係なく。
この都市の地下には巨大な共同溝が埋設されている。原子力発電所一基分に匹敵する建設費を投じてつくられた、エネルギーと情報と集塵システムの、日本最大の共同溝システム。この建築は、そのための展示施設である。
敷地の周囲は新しい街の中心となるはずだったところだが、今は荒野のような空き地である。そこは都心と呼ばれているのだが、郊外よりもっと未開の地のように見える。
参照すべき街並もなく、継承すべき文化もなく、尊重すべき自然もない、そして将来の予測も成り立たない、言わば無のエリア。そこに出現する建築には、いったい何が求められるのだろうか。

小さなこの建築ひとつでは、その機能から言っても、多くの人々を集める賑わいをつくり出すことはできない。この建築の役割は、量的な都市性ではなく、質的な都市性を果たすことにある。見えない都市を「見える」ようにする、モデルとなること。自分自身が、都市というものの、「模型」であること。

では、都市性として何をとりだすのか。

第一展示室:光/単純な、多様性

都市の特性のひとつは、「多様性」にある。
ひとつの目的のために、複数のルートが選択できること。
ひとつの目的を遂行する過程で、目的以外の作用が混在してくること。
ひとつの基準で選択すると、必ずその基準には合わないヒトやモノや現象が現れること。
たくさんの要素が関係し合い絡み合うという複合性が、一筋縄ではいかない都市の性格をつくりだす。単純な単位の組合せが、複雑な全体を生む。そうした都市の構造を、この建築はモデル化して体現している。

金属のユニットは、単純な抽象形態を基本にしているが、それが組み合わさって多様性のある全体となる。それぞれのテクスチュアには何種類かの違いがあり、その組合せも多様性を生む。その際の手がかりは、「光」である。
光の透過率と反射率、それに波長が少し異なるだけで、結果は大きく変わる。
反射面の角度の差が光の方向を偏向させ、太陽の動きを増幅して描きだし、時間によって知覚される形態が変化する。

制限された素材と形態の単純な組合せが、光を媒介にして複雑な全体を生成する。

第二展示室:時間/滑走

この建築の形態は強い方向性を持っている。
基壇となる地形とは、部分的にだけ接している。それが、滑走を終えて飛翔する瞬間か、それとも長い飛行の果ての、着地する一瞬か、定かではないが、モードの遷移する過程の、きわめてわずかな静止の時間であることは確かだ。作動する転換モード。
都市とは、永遠の「転換モード」にある存在なのだという認識が、そこにある。

その動きが、都市を賦活する。都市が生命化される。

第三展示室:材料/開発

この建築では新開発の素材が数多く使われている。
外装材のアルミおよびステンレスパネルは、三次元立体部を3ミリ幅の細い目地であらかじめ一体化した上で取り付けている。
内装では、アルミハニカムコアを二枚のアクリル板で挟んだ材料を開発した。
アクリハニカムと名付けたこの材の背後に照明を配し、銀色のコアのきらめきを伝えている。
内部の自立トイレブースは、ドアや洗面器や排気塔等も含めて人工大理石で一体整形した。
トップライトの曲面体は、長径5Mの半透明なFRPの一体整形による。
これは都市に不可欠の、「やわらかいなにか」でもある。
カーボーンファイバーによる風にそよぐ環境彫刻「ファイバーウエイブ」は、普通は見えない「風」を、見えるようにする装置である。

単一な素材ではなく、複合された材料でつくられた建築。都市もそうしてできている。

第四展示室:展示/見えないもの

展示は、模型、見本にデジタルメディアの併用で、空間の中央部に線形に並んでいる。
展示内容のすべてをデジタル化して室内にはスクリーンだけが吊られている、という構想を提示したが、実現しなかった。やはり、モノを置きたいという性向は根強い。
この建築は都市のインフラストラクチュアへの理解を深めるという特定の目的を持っているのだから、一般のギャラリーのようにフレキシブルな展示空間である必要はない。ユニバーサルスペースではないのだ。キャラクターは明確にしていい。
共同溝本体は見学コースで見ることができる。本物はそこにあり、ここにはない。
だから、極端なことを言えば、この建築を見ることが、「見えない」都市の「構造」について考える契機となれば、この建築は課された「展示」機能を果たしたことになる。

多様性、選択性、対称性、交換性、関係性、光、そして方向性。そうした「見えない」ものが、都市の(共同溝とはまた別の)「インフラストラクチュア」であることが伝われば、この建築の役割は満たされる。

イクジット:展示/見えるもの

上:写真
下:模型

というわけで、結局、この建築自体が、「展示品」なのです。
ひとつしかない、実物としての建築。ただひとつの、この場所。
共同溝本体という実物も、その固有の場所にあるわけで、展示「建築」としての価値は、この、唯一無二性に帰するのではないでしょうか。
空間と時間と気分の、ここでしか味わえない、代替不可能な、非疑似体験。

それ以外の「展示」は、すべてソフトウエアに変換することができます。そしてソフトウエアは(人的なサポートも含めて)場所に拘束されません。どこにでも配信可能で、どこにいても手に入れられる。ひとつの「箱」は不要です。
ということは、逆に、「自立した」機能のない箱=建築に、存在意義はない、ということになります。
そしてまた、この、唯一の「実物」であるはずの建築自体が、都市の「模型」である、という仕組み。

本物はつくりもの、つくりものは本物。

さて、こうした、「本物」と「模型」と「ソフトウエア」を巡る、「見える/見えない」、の多重構造が、展示「施設」ということになります。
施設、というより、展示「系」、とでも呼んだほうがいい。
百聞は一見にしかず?、なにが実物でどれが模型なのか、見えないものが果たして見えてくるかどうか、よく晴れた日の午後、できれば少し風のある日に、ご自分の目で、確かめていただければ、幸いです。

K-MUSEUM  名称:「共同溝展示室」
現在、内部は一般公開されていませんが、外部を見ることは可能です。
JR&銀座線の新橋駅から、新交通ゆりかもめの 国際展示場正門駅下車、 歩6分です。

KM 2024記202404

KMの使命は、臨海副都心の誇るインフラの、巨大共同溝を広く知っていただくこと、だった。

都市東京の抱える問題(のいくつか)を解決する新都市として臨海副都心は設計された(はずだ)。
東京を世界のビジネス中心(のひとつ)とすることが、この都市の主目的とされた。
そして、バブル期のような地価高騰を起こさず、かつ細分化された私権による都市計画遂行の困難さを解消するために、土地は公有化し、原則として売却せずに期間限定で貸し出す、という、日本の都市では他に類を見ない(と思われる)基盤方式を採った(と思われる)。
その基盤上の交通体系は、ほぼ完全な歩車分離を行い、ひとは上、車は下、の立体方式を徹底した。
コンクリートジャングルと揶揄された東京の「印象」(実際には東京の緑被率はパリと変わらないがー)を変えるべく、随所に広い緑地や広場を配した。
そして、絶えず道路が掘り返され永遠とも思われる工事が続く状態を避け、かつ震災時にも都市機能を維持するため、電気水道ガス通信といったインフラ幹線を大型共同溝に配し、都市の循環器系&神経系ネットワークとして地下に張り巡らせた。
これで、計画者の夢であった、新時代の都市が出現する、はず、だったのだ。

しかし、バブル崩壊により、描いていたビジネス中枢の需要は止まり、代わって採った暫定商業利用が人気を集め、都市の目的自体が変容していった。
全公有という画期的な土地管理システムは、(おそらく)売却によるゲインに抵抗できず、なし崩し的に土地売却に転換し、当初の理想は減衰していった。
歩車完全分離は安全性と引き換えに、地上階を、歩いてあまり楽しく「ない」路に変え、またその後に一般化した自転車利用に対応しきれていない。

そして、売り物だったはずの共同溝にも向かい風が吹く。
ゴミの集積所を不要とし収集車も走行しない、目玉の真空集塵システムが、その後の環境対策の変化に伴う分離収集に対応できず、閉鎖されてしまった。
地下を走る大規模なチューブラインが、無用の存在と化した。
(もちろん、真空集塵以外の共同溝内ネットワークは、その後も有効に街を支えている)

KM=「Kyodooko Museum/共同溝展示館(or室)」は、その共同溝を一般に解説するためにつくられたのであった。
臨海副都心が誇るこの新時代のインフラを広く都民市民の方々に知っていただくことが、KMの目的だった。
そのため、来訪者はまずKMで共同溝の概要説明や耐震可撓ジョイントの現物等を見た後、近くの入口から地下の共同溝を実際に目にする、という見学コースが設定されていた。
ところが、世界的なテロの頻発等により、都市インフラ情報を拡散させるリスクから(と思われるー)共同溝の見学は中止された。
共同溝の見学を行わないとなると、面積の小さなKM単体では展示施設としての機能は十分には果たせない。
そのため、しばらくはボランティアで続けられていたKMも、やがて閉館となり、現在(2024)に至っている。

ちなみに、福井晴敏の小説「Op.ローズダスト」(2006)は、テロリスト集団がこの共同溝の真空集塵システムを支配して臨海副都心の各所に(ゴミではなく)爆弾を送り、遂には都市全体を破壊する、という設定である。
その文庫版のあとがきの冒頭で橋爪紳也は、KMとこの都市の計画理念について触れ、共同溝の意図を記している。
(そこではKMは中止された都市博のパビリオンとして企画と記述されているが、KMは恒久施設として都市博の中止後に完成している)

2024年現在、KMは閉鎖されている。
閉鎖後に張り巡らされた白いフェンスの向こう側、黒々とうねる石の海原の上に置かれた銀色と金色の金属の塊のように、KMは静かに横たわっている。
風にそよぐファイバーウエイブは、だいぶ数が減ってはいるが、なお、そこに透明な空気の流れがあることを示し続けている。
橋から下に降りて見上げれば、空に向かおうとするその姿形と姿勢は、いまもなお、かつてと変わっていない。

現在から過去を糾弾することは、容易である。
先を見通せなかった、見落としがあった、判断が誤っていた、と、結果を見てからいうことは、簡単だ。
だが、ここには、この都市には、過去への反省と未来への眼差しがあったことは、確かだ。
そこに、輝ける都市(1930 ル・コルビジェ)、東京計画1960(丹下健三)、アキラ(1990 大友克洋)、の影が重なっているとしても。

KMの姿を、これからいつまで、目にすることができるのかは分からない。
明日行ってみたら、消えていた、ということもある、かもしれない。

しかし、この地に都市の理想を投影し、新たな構想を掲げ、幾多の困難を克服して実現に努力した、そしてあるところでは挫折もした、その多くの方々の、理念と意思と行為と(幾分かの無念と)を体現する「小さな結晶体」として、KMはいまも、そこに、ある。

(本稿の経緯記述は、筆者による想定を含みます。事実と異なる点があれば、根拠と共にお知らせ頂ければ幸いです。確認の上、訂正することがあります)

さよなら K-MUSEUM202412

「禁断の建築」の終焉

「世界のどこにでもあるものをつくるために、世界のどこにもないものを壊してしまった」 (Carlos I/Spain 1516-1556)

予感と偶然

前項 「KM 2024 記」 を記したのは2024年4月だった。
それから半年後の10月に、東京都が「K-MUSEUM」 の解体を決定したという連絡が日経新聞からあり、コメントを求められた。

4月にふと 「KM 2024 記」 を書く気になったのは、K-MUSEUMの消滅を「予知」 したからか?
もしかして、KMに 「呼ばれた」 のかもしれない ー 「最後に、経緯を記しておいてほしい」 という ー
と思ってしまいそうだが、筆者はそうした 「スピリチュアル系」 の思考はしない。
予感や霊感ではなく、タイミングが偶然、一致しただけだろう。

KMの解体は、3つの課題を提示していると思われる。

建築の価値

まずは 「使われなくなった建築をどうするか」の問題。
「建築の価値の社会的認識」 のことだ。
それは毎回繰り返される「文化継承の問題」であり、「建築と機能の課題」でもある。

都市は更新されていくものだ。更新に破壊が伴うのは当然である。
機能を失ったもの、状況に不適合となった存在は壊さなければ、よりよい街はつくれない。
機能しなくなっても残す方がいいもの、それは機能を失ってもそれ自身の価値を持つものだ。
当初の機能とは別の、建築としての価値、空間/形態の力、歴史的意義、それが「新しい機能」を形作る。

建築は特定の機能をかなえるためにつくられるが、建築と機能の1:1の結びつきは絶対ではない。
建築に当初の機能とは全く別の機能を与えることもできる。
駅が美術館に、城塞がホテルに、住宅がギャラリーやカフェにー
KMは、そうして選ばれるそれ自身の「価値」を、持っていなかったのか。
それとも、都がそんなことは考えもしなかった だけか

設計者としては、KMに新しい機能を与えて再び活かすことで、この都市と来訪者に寄与できたはずだ、と思う。
が、その価値を判断するのは設計者ではない。
同時に、その裁定者は、所有者でも、SNSのフォロワー数でもない、のかもしれない。

技術の価値

無機的な内部空間と、温かみのある曲面のトイレブース。
それ以外のカウンターや展示類は夾雑物を排除してシンプルに構成。
展示説明は、当時まだ発売前だった平面ディスプレイのみとし、可撓ジョイント等の展示品とも吊支持。

もうひとつは、「使えなくなった技術をどうするか」問題だ。
「導入した新技術/巨大システムが、社会/環境からの要請の変化に対応できない場合」のこと。

一般に共同溝というと、「道路下に配管を埋めました」程度に思う方も多いだろう。
しかし、この都市の共同溝は違う。
断面14m x7.7m、シールド直径9.1mX≒1.7本、全長16km、
副都心全体の 電気・ガス・水道・通信 に加えて中水道やゴミ真空集塵システムも要する、都市情報エネルギー系の巨大地下インフラだ。
ちなみに、(飯田橋駅を設計した)地下鉄大江戸線の軌道部シールド直径は≒5.3mX2本なので、共同溝の方がだいぶ大きい。
臨海副都心の地面の下には、地下鉄を上回る地下トンネルが張り巡らされているのだ。
そのトンネルに入る見学ツアーの「事前学習の場」として、KMはつくられた。

「KM 2024 記」 に記したように
この巨大インフラをつくることで、対災害強度を高め、永遠の道路掘り返しをなくし、電柱を消し、さらにごみ収集車が走らなくてよい都市をつくる、という「都市計画者の夢」 が実現した、はずだった。
そこに、逆風がー
K-MUSEUM の一般公開が 23年間!休止されていた理由は、単に入場者数で語られることが多いが、
実際は、その背後にあるだろう。
(破損も理由とされているが、23年間メンテ無しではどこか痛むのも当然だ)

その理由のひとつは、ゴミ真空集塵システムの運用中止だ。
集塵システムの太い配管は共同溝を見せたときにいちばん目立つ。
あれは何かと聞かれて、「あれはもう使っていないんですよ」とはいいにくかろう。
売り物の機能が無用となれば、共同溝内部を見せる意味が大幅に低下する。
集塵システム停止の理由は、分別収集に対応しにくいことと、管路の痛みが多く保守にコストがかさむこと、が挙げられている。
しかし、世界ではこのシステムがなお使われている都市も多い。ノルウエーのベルゲンでは全市でシステムが稼働し、きれいな分別スタンドが街なかにも立っている。
分別収集に対応するために投函を時間帯で分ける方法は日本でも使われているし、投函時間は制限せず投函口を分別化して一時ストックし、集塵稼働を時間差で行う手もあるだろう。

要は、何を優先するかという 「目的」 の設定なのだ。
道路際にゴミ袋が積み上げられカラスに突かれて散乱している街を毎朝通勤通学しても、それでいいんだとするのかどうか。
ゴミ収集スタッフの作業負荷や収集車の交通課題もある。
それらはそのままでいいのか、なくした方がいいのか。
そのためには何を譲る必要があるのか。

目的の価値

トイレブースは壁天井とも暖色系の結晶化ガラス製。
天井は柔らかな光を透過する。
ユニバーサルトイレの押しボタンは、物理的な触感をデザイン。
物理ボタンにすることで、押したことを手で感じられるように、そして形と大きさも変えて、どちらがどちらかを分かりやすくした。
KMの内壁にはアルミハニカムを組み込んだガラスパネルが用いられた。
同じハニカムをアクリル版に組み込んだ椅子も同時期に設計した。
(ハニカムチェアはKMでは使われていない)

このことは3つ目の問題につながる。
「目的達成より、眼の前のリスク回避」を優先してしまう問題。
それは、「ひとつダメだと、全部ダメ」 風潮 のことでもある。

「あるべき/よりよい」都市の姿を「イメージする」こと、そしてそのために払う対価を、「決心/覚悟」 すること。
それなくして目先の損得だけで決断を重ねていると、都市はどうなってしまうかー

こうなりがちな性向は、都市問題に限らない。
かつて、石油輸入を絶たれては死活問題だからといって、勝てる見込みのない戦いに進んでいった、あのとき。
油は国と国民を豊かにするためのツールなのに、そのツール獲得を優先してそれを使う国民と国を失う道を選んでは本末転倒で、いわゆる「元も子もない」結果を招いたのは必然だ。

組織であれシステムであれ、なにか新しいことをなそうとすれば必ず問題や反対に会う。
その都度、なんのためにそれをしているのかというその「目的の重要度」と、眼の前の「問題の困難度」を秤にかけて、問題を処理して目的を達成する道を見つけようとする必要がある。
それをせずに、目前の問題の回避(とそれによる身の安全)を優先させて、目的遂行をただやめてしまっては、「大きな目的=より大きな問題の解決」は、永遠に達成されない。
「優先順位が間違っているのに眼の前だけを見てそちらに行ってしまう」 この傾向は、今に至っても変わらないのだ。
「偉そうな正論をいうな、おまえは何かできたのか」、といいたい方もあるだろうが
こう「記す」ことも、「できること」の、小さなひとつなのかと。

波風をたてないことを最優先とし、大きな問題の解決は二の次にしてしまう、この性向。
それは私の中にもたぶん潜在しているのだろう。そうとは気づかないだけで。
これはDNAに書き込まれたプログラムではなく、社会の中で繰り返し施される教育で叩き込まれたものではなかろうか。江戸時代中期から現在に至るまで、連綿と続いてきた一種の社会教育プログラムとして。
学校や近隣や企業やメディアに潜む共通原理。
しかしそれは教科書に書かれているわけではなく、教師の指導でも、政府の強制でもない。誰も強いることなく、しかし静かに広く浸透している、教育システム。
授業や会議やチームワークの中で繰り返し唱えられる、「空気を読め、和を乱すな」という教え。
和を最優先し、その結果どこに向かうことになるのかは考えないことにする、行動原理。
それは直近安定(化)原理、あるいは「直近関係原理」と呼べるかもしれない。

もちろん、この「直近安定原理/直近関係原理」は負の面ばかりではない。
周囲の反応を読みながら自分の応答を選択していく方式は、システム全体の一体性と安定性を高める。
この種の原理は、自然界、例えば鳥や魚の群れの行動にも見られる。
多様な動きを見せながら乱れることのない見事な群れの行動。それは誰かの指示によるものではなく、事前の訓練によるのでもない。各個体が周囲の個体に対して距離や速度を一定に保つという単純なルールに従った結果、であることはよく知られている。
単純な規則による複雑な全体の形成。まさに「複雑系」の基本的な構成原理のひとつだ。
(この用語はキーワードとしてはすでに希薄化しているが、それは多領域ですでに既知の前提となっているためと思われる → 関連参照:AItect頁
ここで各個体が留意するのは、達成すべき目的や到達を目指すゴールではない。
群れの飛行で気に掛けるのは、「互いの関係」だけなのだ。
それはまさに、「和を優先する」原理。

トップライトとして機能するFRPの半透明曲面体は、硬質外殻のKMでその(内的?)胎動を伝えるアイコン、でもある。

それは、法律や慣習や宗教等の現在広く用いられている統治方法と違い、一律の規則や規範で個体の行動を規制しない。規制しないのに良好な結果を得られる。
法規制や多数決や強制のようには言語化/制度化もされない。
成員がその存在を認識していない点で、慣習や倫理とも異なる。
書き出すこともできず、それがあることすら気づかず、意識することなく、しかし誰しもが採用することで絶大な効果をもたらしている、この「見えない」システム。
これは現行のシステムより遙かに高度な(もしかしたら次世代の)仕組みとも、いえるかもしれない。

17世紀から19世紀までの290年間、この国は戦争をしなかった。
(パックス・ロマーナでさえ、平和が続いたのは200年間だった)
現代でも、災害時にも略奪や暴動が起きることは殆どない。犯罪率はフランスの1/5.5 米国の1/28だ(2022年統計値)。
それは恐怖政治により押さえつけられているからではなく、戒律によるものでもない。政府批判をいくらしようとも、投獄されることはない。
その理由のひとつは、強制も規制もされずに各人が自動的に身につけることになる、この安定化システムの作用であろう。
そうした利点があるからこそ、このシステムが長きに渡って連綿と受け継がれてきたのだ。
あまりにも長く続き、あまりにも当たり前になった、このシステム。

だからこの国の人々は、それが世界でも同じだと思ってしまう。
どの国のどの人々も、自分の行動は相手の意向を先取りして調整し、利は取り過ぎず、互いに軋轢を避けるように行動するはずだ、と一方的に思い込む。
そしてあるとき、その「万能関係調整システム」が通用しないことに気づいて、愕然とすることになるのだ。

しかし、国内においても、この安定化システムには、すでに指摘してきた課題とは別に、大きな弱点がある。
安定をなすが故に、大きな変革を必要とする事態ではむしろその変革を抑制する方向に働いてしまうのだ。
大規模な危機的状況には対応できない。
そこで機能するのが、もうひとつの潜在システムだ。
このシステムは、安定化システムが維持してきた変革抑制圧力を瞬時に開放する「非常開装置」である。
それは多くの社会システムをひっくり返す程の作用を発揮するが、当然ながらその反作用もまた甚大となる。
他に 「どうしようもないとき」 にしか、使えない、最終手段というべきものだ。

(Courtesy Google)

そして堅固な安定化システムの元では、この非常用システムの起動スイッチを内部から押すことはできない。起動には外からの強い圧力を必要としてきた。
この国の歴史上何度か、そうした事態が起きたことがある。
先延ばしを続けてきた不可避の大きな問題がついに臨界点に達したとき、安定化システムの可動域を越える黒船や大戦という大きなカタストロフィを経てようやく全システムが更新される。
システム更新は外力頼り、の繰り返しとなる。
これは「革命」に似ているが、革命と異なるのは、体制(の根幹)は維持され続けるということだ。
非常装置といえども、「安定化システムそのもの」は、開放できないのである。

この、常在する堅固な安定化潜在教育システムは、どうすれば変えられるのだろうかーと思う。
たかが建築ひとつから、大げさなことをいうなといわれそうだが、この教育メカニズムは巨大なシステムではない。
これは無数の端末にそれぞれ潜む、ちいさな、しかしどこにでもいつでもそこにある、普遍・遍在のシステムなのだ。
そこに中枢もない。ゲームや映画のように、ラスボスを倒せばゲームオーバー、とはいかないのだ。
その点では、この伝統のシステムは現代のブロックチェーンにも似ている。
それは私の中にも、そしてあなたがこの国の住民であれば恐らくあなたの中にもー

もっとも、中世の戦国時代に戻ってしまったような、理想や理念より腕力次第の現在の世界情勢の中で、この「安定化+非常開」の両輪システムが今後も機能できるかは不確かだ。
その結果生ずるであろう世界的な大カタストロフィの中で、この国のシステムは真に「変わる」ことができるのか、試されることになるのかもしれない。
この国は、今日の安定化システムを持たなかった500年前の戦国時代の「風土」に、再び戻ることができるだろうか。

どこにでもあるもの

話が広がりすぎたかもしれない。元に戻そう。
臨海副都心には、都市計画者の理想のビジョンが投影されていたはずだ。
その意気と視座を、もっと誇ってもいい。
共同溝以外にも、土地公有化により土地の資産価値ではなく利用価値を強化する方針もそのひとつだ。
土地をただ寝かせておくのではなく、使うことでその利用者も所有者も益がある仕組み。
ここがその理想を掲げた都市であること、どこにでもある都市ではないことを、都はもっとアピールしたらどうか。
その実現度の評価と反省も含めて。
共同溝も、都市観光の資源、いわゆるインフラツーリズムの一環として、訴求する方策はなかったのか。
世界の都市が自身の魅力を訴求し合ういま、「黙っていてもわかってもらえる」では通用しないことは、「よくわかっている」はずだ。

どこにもないもの

これまで、海外各国の多くの建築家や研究者から要請されてKMを案内してきた。
カナダのカルガリー大の教授は毎年夏に20余名の学生を連れて炎天下のKMツアーを行い、そのあとワークショップをしていた。「KM 2024 記」をULする直前にも、デルフト大教授だったオランダ人建築家夫妻を案内した。
フランスのポンピドーセンター主任キュレーターも以前来訪した。

公開が中止されて誰も見ることができなくなった、巨大インフラの共同溝。
その共同溝を象徴する、誰も入れないKM。
KMは、立ち入ることのできない 「禁断の建築」 として、閉鎖以後、遠来の客人を饗していたのだろう。

KMが生まれたのは1996年。すでにバブルはとっくに過ぎた、景気後退の時期だった。
それから今に至るまで、KMを壊さずに置いておいてくれた?東京都と港湾局の方々には、その点では感謝するべきかもしれない。
もしかしたら、ここで述べたようなことは十分に検討を重ねた上で、解体は「苦渋の決断」だった、という可能性もあるー それを知る由もないが。
しかし、これだけ待ったにもかかわらず、再活性化の道が選ばれなかったことは、とても残念だ。
(そういえばKMは、東京の名を冠した賞(東京建築賞 1997)や 都市景観の賞(都市景観大賞=国土交通大臣賞・ 米国ランドスケープ協会賞 ASLA 1977)も受けていた)

To say goodbye is -

私情になるが、自らが設計した建築は、建築家にとって巣立っていったこどものように思える。
ヒトはいつか死ぬ、建築もいつかは壊される、と分かってはいても、いざその時になると、別れはやはり辛い。

今回、日経新聞から連絡を受けたあと
現地に行って
別れの挨拶をしてきた。

生まれてから28年間、
孤立無援の中で光を放っていた K-MUSEUM に
「ありがとう」 と。

(スピリチュアル系 の思考はしないって、さっき・・・)