ATLAS1996

街への一般解/単純原理による多様性
集合住宅

街への一般解/単純原理による多様性

街は誰がつくっているのか/分譲集合住宅のすべきこと

住宅街を歩いてみよう。そこにあるのは建築家の作品ではない。
名もない、マンション、の群れが、街を形づくっているだ。

この建築は、民間の分譲集合住宅である。ふつう、分譲マンション、と呼ばれているものだ。
現在の日本では、分譲住宅の購入者はそれを将来転売する資産と見ることが多く、空間の価値は二の次にされがちだ。これが賃貸住宅であれば、資産ではないのだから、住む場所としての価値が求められる。しかし、徐々に変わりつつあるとは言え、分譲となると極めて保守的だ。
何LDKいくら、という「伝統的」な「物件」を求める「平均的」な潜在購入者を対象に、最大公約数としての「商品」がつくられる。(本当は、そんな公約数のひとなど、存在しないだろう。存在しない「需要」に向けて「商品」がつくられ、そうして生み出される「定番」の氾濫が、需要者の意識を狭くしてしまう。)
「建築家」は、こういうのは嫌いである。近寄らない。そのため、建築家が分譲集合住宅の実施設計から監理まで行なうことは少ない。
その結果、規格品のように同じスタイルの箱が量産される。負のフィードバック。
そして、住宅地の街並は、そうした「建築家のいない」集合住宅でできあがる。
だれかが立ち切らなければ、この回路はこのまま作動し続ける。

一方で、公共の集合住宅もある。しかし、公的資金による価格の軽減が期待できる公共住宅と、厳しい市場原理をクリアすることを義務付けられた民間分譲住宅とでは、前提条件が違う。
そして公共「賃貸」住宅では許される建築的実験も、民間「分譲」住宅では無謀とされてしまう。もちろん、その逆の場合もあるだろう。

置かれた環境条件を理解しなければ、その建築が何を解こうとしたのかが見えてこない。
解答は、課題を知らなければ評価できない。
建築に課されたテーマは、みな同じというわけではない。
ひとつの街にも、多様な「課題」と、多様な「解答」があるはずだ。

マスを、変えなければ、街は変わらない。
量をなすもの、を変えなければ、都市は良くならない。

そのために、「普通の」マンションに課された(けして、すべて、ではない)市場経済的条件をクリアしながら、街と生活空間へ、これまでと違う提案を行うこと。
そのための新しい、しかし、どこでも誰でも使える、「方法」を提示すること。

誤解しないで欲しい。これは、現状の無批判な肯定とは、まったく違う。
条件の、選択的変換なのだ。

批判を論評に留めるのではなく、それを実行するためには、誰にでも採用可能な「代案」を提示する必要がある。
新聞に折り込まれて毎朝どさりと届けられるマンションの広告と、同列に扱われても「成立」するものを提示すること。そして、その上で、折り込み広告には記されていないことを実行すること。
そうすれば、街はもう少しよくなる。
そして、良い街とはなにか、という議論も、その提案を契機にして生まれるだろう。
そしてそこから生まれる「解」のいずれかは、日本のみならず、アジアの、そして世界の都市にとって、共通の解となるかもしれない。同じ悩みはいづこにもある。

都市は多様であるべきものだ。渋谷の都心と荻窪の住宅地と臨海副都心とでは、街の在り方は異なっていい。
街への解は、ひとつではない。

東京の住宅地/望ましい街の姿

この建築の位置する荻窪という街は、東京の巨大ターミナルの新宿から電車で15分程の、小さな一戸建住宅の多い街である。
日本の現行税制の結果、住宅地はどこでも遺産相続の度ごとに敷地が分割されて、次第に単位が小さくなっていく傾向にある。しかしこの街ではそれも限界に達していて、再び住宅は集まって、集合住宅化しつつある。
その結果、いままでは小さな単位が集まった街であったところに、それより大きなスケールの塊が増えていくことになる。

ではしかし、その時、どのような街並をつくっていったらいいのか、その提案はいまだなされていない。
京都のように歴史的な低層住宅の連続する街並ではなく、また超高層オフイスの林立する新宿でもなく、かといって商業施設が自由なエネルギーを放出する渋谷でもない、住宅の街。現状のままではいられないのは確かだが、どう変わったらいいのか分からない街。
そうした街は、ここだけではなく、東京、そして日本、そしてアジア中に数多くある。
望ましい自分の姿を模索している街。
この建築は、そうした場所に登場した。

街の構成原理から/不規則性という規則

小さな家や細い道や、植込などのしつらえによりつくられるこの街スケール感は、街に親しみを生んでいる。また、少しづつ異なった家々の集合、という性格は、画一的ではない統一感を感じさせる。
どちらもこの街の特徴であり良さである。それを継承しながら、家よりはスケールの大きい集合住宅を成立させるための、新しい解法を示すこと、それを求めた。

それは、現在の街から抽出される構成原理を用いながら同時に、現状の延長ではなく、今後の街の変化に対応する指針を探そうとするものである。

ここでは全20戸の住戸に16通りのプランを用意し、これを各々異なったボリュームの単位として組み合わせた。
その過程は同じユニットが積み重なるとか、ひとつの立体を切り分ける、というのではなく、異なったそれぞれの住戸単位を集合させるという方法をとった。
大きな壁が立ち上がるのではなく、ずれたり角度が振られたりした単位が、なだらかに集積して全体を構成する。

その結果は、完結した一個の建築というより、街の一部のような姿となる。
建築のどの部分を取り出しても、そこにはこうした原理が成立している。
部分に全体があり、全体は部分の一部である、というしくみ。

敷地の北側は日影規制と駐車場の附置義務のために壁が立ち上がっているが、それは大きくセットバックし、手前に低い設備棟を配することで、やはりなだらかなスケールの変化を形成している。

この構成方法は、強い全体規則の強制ではなく、部分的なコードのゆるやかな適応によってできている。
部分的、というのは、たとえば、

(非垂直) 同じ単位をそのまま重ねない
(非水平) 連続する場合は角度を変える
(斬変化) それもあまり大きくない範囲で変える
(非連続) 同じような大きさの単位を連続 させず異なったサイズの系を重ねる

といったコードである。

こうした手立ては、微妙な不規則性と、その微妙さに起因する破綻のない全体のバランスとの、双方を成立させることを可能にする。
その規則性/不規則性は、明白で強固な統一ルールであってはならない。なんとなく、どこかにある、しかしはっきりとは見いだせないコードとその効果。つくられたのではなく、発生する街の、自然な柔らかさの理由が、そうしたあいまいなコードの中にある。
それはたとえば、注意深く庭石を置く際の、「間合い」の中に潜むコードに近いのかもしれない。あるいは、パーティー会場で歩き回る人々が、いくつかの群れとなって落ち着く様にも、類似の「関係」が見られるのかもしれない。

こうした、都市の潜在的コードの探求とそのプログラム化は、都市をつくる/発生させるに際しての必須の研究である。
その一端は、別項「誘導都市」プロジェクトを参照されたい。
今回の建築では、用いた方法はコンピュータプログラムではなく、いわばヒューマンプログラムに依っている。しかし、都市に向う意向は同じである。

そのような手順でできた建築は、当然ながら全体として単純なパッケージをまとわない。
建築全体を単純な形態にパッケージすることは、この街のスケールや性格とは違う異物を「挿入」することになる。ここではそれは避け、街と融和するものとして、この街に言わば自然「発生」する建築を目指した。

それはまた、ひとがみな違うように、家はみな異なるはずという認識に対応している。
一戸建の住宅ならばそれそれ違うのに、集合住宅になると各戸みな同じ表情、というのは不自然であると考えた。
その具体化は、バルコニーなどの二次的な付加物で変化を付けるのではなく、できるかぎり住戸のプランや架構そのものを変化させて構成した。

一体性をつくるもの/色彩・テクスチュア

個々の単位が変化する構成に対し、一方で全体の一体性を伝えるものとして色彩とテクスチュアが使われた。
中庭は床・壁とも白い色調で、包み込まれるような空間の一体性を強調している。
タイルには透明感のある白さを求めて、無釉のものを製作した。
また、異なった単位の組合せという構成を示す意味で、中庭側と道路側の一ヶ所づづの面に土黄色が使われた。ドームの屋根は、空に接続するための青色となっている。
アプローチの石の自立扉は、二枚の花崗岩をカーボンファイバーのフィルムで接着したもので、新開発の工法であり、補強の枠板等は使わずに、石材のみで成り立っている。

白い壁には細いスリット開口と金色のタイルのラインが転写されている。
これは、全体の構成とは異なった系として、別のルールでつくられ、重ね合わされたものである。
異なった複数の方法の重ねあわせ、は、街が単一な原理のみで構成されていないという認識から生じている。
また、スリットとラインは視覚的な運動感を与えると同時に、角度や方位の違うそれぞれの面の金色のラインが太陽の光を拾って輝くため、時刻の変化を間接的に示すことになり、日時計のように自然との呼応を表示している。

パブリックスペース/空の中庭

一戸建てと集合住宅の違いは、共用空間の有無にある。
戸建てで分割されていた小さな庭も、集めればまとまった大きさになる。ともすれば集合住宅でも一階の住戸の専用庭として再分割されてしまうこのスペースを、共有の中庭やアプローチとして確保した。

アプローチは出入りの多い壁に挟まれた狭い路地であり、見上げれば不規則に切り取られた空に金属のロッドが金色の雨のように走っている。そこを抜けると広がる中庭は、素直に気持ちの良い空間となることを求め、視線を取り込むひだとして入り組んだ奥行といくつもの開口のある襞を用意した。
池のような中庭には、夜、水の代わりに光が湧き出る。エレクトロルミネッセンス灯の光源から、ブルーグリーンの水がほとばしる。

建築の輪郭で切り取られる空は「空の中庭」として知覚されるべく、サイズや輪郭を決定した。

各住戸へのアクセスはいくつもの階段やブリッジ等、できるだけ複数のルートを用意し、気分によって選べるようにした。
それは、「複数の候補から選択できる」ということが、都市の基本条件のひとつだという認識によっている。